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『「三億円事件」に新説登場?フィクションとしても面白い』


『「三億円事件」に新説登場?フィクションとしても面白い』



http://dmm-news.com/article/901911/

【三億円事件】46年目の真相「田中角栄のポケットバンクが襲われた」(前編)

2014.12.10 06:50 DMMニュース

有名な三億円事件のこのモンタージュ写真
有名な三億円事件のこのモンタージュ写真
 日本の未解決事件史上、最大のミステリーといわれる「三億円事件」が12月10日、発生から46年目を迎えた。1975年の12月10日に公訴時効となってからも、39年の時間が経過したが、事件の概要はいまだ謎に包まれたままだ。数々の犯人説があるなか、今回、新たな犯人説が浮上した。驚くべきその内容をお伝えしよう(DMMニュース編集部)。

遺留品150点以上も残し時効になるなど考えられない

 動員された捜査員、16万人以上――。捜査対象者11万人、参考人32人、強制捜査1人――。 捜査費用9億円――。

 前代未聞の人員と巨額の費用が投入されたものの、事件は迷宮入りした。

 1968年(昭和43)12月10日――東芝府中工場に運ばれる予定だった約3億円の従業員のボーナスを積んだ日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が、偽の白バイ隊員によって白昼堂々強奪された。

 わずか数分の、見事ととしか言いようのない強盗劇――だが、事件の細部を検証すればするほど、三億円事件の非現実性ばかりが浮き彫りとなる。

 まず白昼堂々、しかもわずか数分で現金を強奪することがなぜ可能だったのか。そして警察の捜査網をかいくぐり、時効まで逃げ切る芸当がはたして可能だったのか。

 元公安幹部A氏は、筆者が抱いた疑問について、次のように答えた。

「白昼堂々の強奪と逃走劇。さらに遺留品を150点以上も残して、時効まで逃げ切ることは、100%あり得ない」

 だが、その“あり得ない”事件が現実に起きたのである。

なぜか警察からの警護要請を無視した日本信託銀

 東芝府中工場(以下東芝府中)は1965年(昭和40)に日本信託銀行国分寺支店(以下信託)と取り引きを開始した。

 当初、従業員の給与を運ぶ際は、信託の斜め前にあった三菱銀行国分寺支店(当時)に一晩預け、給料日当日に三菱銀行から出発していたとされる。

 給与の銀行振り込みが当たり前の昨今と違って当時は現金支給だった。

 だが1968年10月、つまり3億円事件が起きる2カ月前から、運搬方法が変わった。信託から直接給与が運搬されるようになったのである。

 三億円事件の前日、信託は賞与の袋詰め作業の際に警察へ警護の要請をしている。しかし、運搬の際の警察からの警護要請は無視しているのだ。この不可解な信託の行動は、まるで「現金を奪ってくれ」と言わんばかりの奇妙さである。

 さらに、事件発生後の警察の対応にも疑問がある。事件発生から警察が事件を発令するまで14分の時間を要し、奪われた金額も当初「9000万円」と誤伝している。単なる現場の混乱とされたが、はたしてそれだけの理由だったのだろうか。

 奪われた3億円は、わずか「1万6000円」の掛け金の損害保険で補填され、翌日には従業員にボーナスが支給されたという(一説には1週間遅れたとの話もある)。

 事件発生後、警察は内部犯行の線から、東芝府中や東芝本社、信託、三菱銀行までをも捜査対象とした。そのドタバタの最中に5千人を超える従業員の賞与の袋詰め作業などは現実的に可能だったのだろうか。

 筆者はずっと疑問に思ってきたことがある――奪われた3億円を誰も見ていないのだ。

 輸送車は確かに盗まれた。だが、ジュラルミンケースの中身は、行員以外に誰も証明できない代物だった。

 事件で奪われたとされる現金のうち、信託側に通し番号として登録されていたのは「五百円札・2000枚」……たったの100万円たらずである。つまり、残りは“足がつかない”金だったとも言えるのだ。

 ジュラルミンの中に現金はほんとうに入っていたのか……じつは、“空っぽ”だったのではないか……。

日本信託銀は田中角栄の“ポケットバンク”だった?

 事件直前の不可解な動きを整理してみよう。

 東芝は三井グループに属する企業であるにもかかわらず、なぜか前述の通り三菱グループの信託(昭和41年に三菱銀行常務が就任し、後に三菱銀行と合併)と取引を開始。信託は三億円事件における被害銀行である一方で別の顔も持っていたのである。

 1973年(昭和48)の国会で田中角栄の金脈問題が追及された際、信託から田中のファミリー企業への数千億円もの疑惑融資の問題が表面化した。田中が大蔵大臣時代に三菱と信託の間を取り持ったとされ、信託の社長が田中の盟友・小佐野堅司の会社で以前に監査役を務めていたこともあった。信託は政界と深い関係を持った銀行であり、前述の疑惑融資を鑑みれば、田中の“ポケット・バンク”的な側面があった可能性もある。そして、田中は1966年(昭和41)12月に辞任した自民党幹事長の職に、3億円事件が発生する1カ月前の1968(昭和43)11月に復帰している。

 東芝府中と信託の取引開始が1968年……田中の幹事長復帰が同年11月……そして、同年12月に三億円事件が発生。

 複数の目撃者や前述した150点以上の遺留品があったことから、早期解決の空気が捜査陣には漂っていた。だが、事件は早期解決どころか、迷宮入りという憂き目をみる結果となった。

 なぜ、犯人を逮捕できなかったのか?(後編に続く)

(取材・文/中村透)



迷宮入りか。時効か。真実を語る人はいないのか。ノンフィクション、小説、ドラマ。どれが本物?。

記事は新たなシナリオを紹介するものだが、後から振り返って都合のいいものをくっ付けたようにも見える。小説なら面白い。



http://dmm-news.com/article/901913/


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三億円事件46年目の真実「背後に防衛産業の利権」(後編)
 

2014.12.11 06:50 DMMニュース

事件直後の現場の様子 事件直後の現場の様子

「三億円事件」から46年目が経った。前編(「三億円事件から46年目にしてわかった事件の真相」)では、東芝―信託銀行―田中角栄という事件の背後にある“接点”が浮き彫りになった。この接点の背後には、防衛産業をめぐるある動きと連動していた! 前編に続き衝撃の新事実が明らかになる!(DMMニュース編集部)
後藤田正晴がこぼした意味深な発言

 三億円事件は、複数の目撃者や前述した150点以上の遺留品があったことから、早期解決の空気が捜査陣には漂っていた。だが、事件は早期解決どころか、迷宮入りという憂き目をみる結果となった。では、なぜ、犯人を逮捕できなかったのか?

 前出の元公安幹部A氏は次のように証言する。

「組織に入ったころ(昭和50年代)はすでに、捜査も下火になっていた。内部で話を聞いた限りでは、捕まえられない事件だったということだ。上層部は全容を把握していた気がする……」

 捕まえられない事件――この言葉で想起されるのが、容疑者とされ、後に服毒自殺を図った警察官の息子の存在だ。だが、A氏はこの警察官の息子の件と事件が未解決になったことは関係ないと言い切る。

「息子のために未解決にするようなことはない。その息子は何かに関与した可能性もあるが、未解決の理由はそれではないと思う」

 三億円事件は何かしらの政治的配慮で解決できなかった事件だったのだろうか。詳細を明かすことはできないが、筆者はある人物とコンタクトすることができた。

 三億円事件発生当時、現場から至近の距離にあった府中競馬場周辺に住んでおり、警察から事件の“重要人物”としてマークされた経歴を持つ人物だ。現在70歳を超えたB氏は当時の状況を次のように語る。

「執拗に公安や警察に尾行されて、妻までも疑われた。当時、貿易や不動産で金回りも良く、派手なアメ車に乗っていたからかもしれない」

 B氏は犯人ではもちろんない。だが、事件から20年ほど経過したある日のことだった。 政界と縁があったB氏は、警察官僚出身で“カミソリ”や“日本のアンドロポフ”の異名をとった後藤田正晴(故人)の関係者と会談していた。そのとき、三億円事件が話題になったという。

「“アメリカ”とか“米軍が”とか、そんな話を聞いたけど……」
自殺者まで出した三菱vs三井の兵器受注戦争

 “アメリカ”“米軍”というキーワードから想起されるのは、三億円事件が起こる8年前の1960年(昭和35)前後から噴出した、防衛庁(当時)の利権をめぐる暗闘である。

「アメリカは緊張の度合いを増した対中・ソに対する防共の基地として、日本の核軍備強化を急いでいた。三菱、東芝、石川島播磨(IHI)などの軍需企業や丸紅、伊藤忠などの輸入商社が躍起になって利権の獲得に動いていた」(元公安幹部・A氏)

 防衛庁の幹部の軍需企業への天下りや情報漏洩、兵器発注の便宜供与が次々と発覚。なかには、謎の自殺を遂げた幹部もいた。

 そうした最中で、三菱VS三井(東芝)の受注戦争が勃発した。ナイキ(ミサイル)は三菱、ホーク(同)は東芝が当初受注予定だったが、“三菱ミッション”と呼ばれる裏部隊がアメリカの軍需企業「レイセオン社」に30万ドル、関連会社「ノースロップ社」に5万ドルの計35万ドル(当時の邦貨換算で1億5000万円)を渡し、三菱が逆転。だが、最終的には日米政府高官が動き、ホークは7(三菱)対3(東芝)で決着した。

 当事、後のロッキード事件で田中角栄とともに主役の一人となる児玉誉士夫は秘密代理人としてこの軍需利権で莫大な金を動かしていた。

 とくに三億円事件が発生した1968年(昭和43)12月、防衛庁の次期戦闘機が「グラマン社」に決定すると、ロッキード社から報酬を得ていた児玉は、首相だった佐藤栄作に猛烈な攻撃を仕掛けた。

「政財界から暴力団まで、すべてを巻き込んで、カネがばら撒かれた。収集がつかず、日米両政府が事態収拾に走った。三菱が取りまとめ役となって、戦闘機などは三菱、原子力は東芝と大雑把な棲みわけができた」(政界関係者)

 そんな最中に起きたのが、不可解な事件「三億円事件」だったのである。
3億円は防衛利権の工作資金として消えた?

『三億円事件』(一橋文哉/新潮社)によれば、実行犯は不良・暴走族集団「立川グループ」で、奪った金は米軍基地に隠した後、海外に持ち出したとある。だが、これは現実に可能なのだろうか。

「昔、警察も米軍基地ラインは密かに調べたらしい。でも、海外にカネが行った可能性は絶対にない。金は国内で消えたはずだ」(前出・A氏)

 3億円は、防衛利権の渦中で“工作資金”として消えた――これが筆者の推測である。 防衛利権に絡む“黒い霧”の渦中で、現在の価値で換算すると10億円もの巨額の金を表立って供与できない状況があった。そこで、3億円事件という“架空の事件”を演出することで、巨額の金を“造り”、そして裏へと流した。

 ジュラルミンの中身は空、工作資金は損害保険で賄われ、国内では損害を被った者はいない――前代未聞の強奪事件と裏金工作を同時に行なう緻密にして大胆な謀略。この壮大な謀略を実行できる人間は政財界で隠然たる影響力・権力をもっていたはずだ。

「上層部は全容を把握していた気がする……」

 A氏の言葉にあるように、警察が手出しすることなどできなかった。事件はこうして迷宮入りした――。

 余談だが、マンガ『サザエさん』に興味深い4コマ漫画がある、バッグを買いに出かけたサザエさんが店頭で大きな四角い鞄を開け(ジュラルミンケースに見立てて)、空っぽであることにハッとしてしまうという三億円事件のパロディ的な内容だ。サザエさんと言えば、1998年までアニメの単独スポンサーは「東芝」だった……これは、単なる偶然だろうが……。

(取材・文/中村透)

【お詫びと訂正】本記事におきまして、記事掲載当初、記事とは無関係な株式会社内田洋行様に関する記述がございましたので、当該箇所を訂正いたしました。株式会社内田洋行様ならびに読者の皆様、関係各位に深くお詫び申し上げます(12月11日13時30分)

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