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「鳥取」, うざわひろふみ-宇沢弘文, 社会的共通資本, 米子市, 経済学者,


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宇沢弘文

うざわひろふみ-宇沢弘文

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目から鱗というのでは遅すぎるしお粗末過ぎる。経済学の立脚点の問い直し。豊かさとは何か。いろいろ問いかけられて窮する。企業に長く居ると価値観まで企業の者になってしまうようだ。



http://www.j-cast.com/tv/2014/11/01219802.html?p=all

いま見直される「行動する経済学者・宇沢弘文」50年前から警告していた『格差と貧困』
2014/11/ 1 12:00

   天使に扮したヒゲのおじさんが東京大「五月祭」のポスターに登場して、『世間はうるさい。だから、原点』とやったことがある。行動する経済学者、宇沢弘文氏だった。先月(2014年10月)、86歳で亡くなった。その原点がいま注目されている。
「一人一人の生き方をまっとうさせるのが経済学の原点です」
   彼が提唱した「社会的共通資本」は資本主義でも社会主義でもない概念である。09年のNHKのインタビューでこう語っていた。「経済の原点は人間。その人間の心を大事に、一人一人の生き方をまっとうさせるのが経済学の原点です」と、経済効率優先の市場原理主義(新自由主義)を対極に置く。「市場取引は人間の営みのほんの一部でしかない。人間らしく生きることが可能になるような制度を考える。それが経済学者の役割です」
   医療、教育、自然、道路・交通、水道・電気などを人々が共同で守る財産と考え、利潤追求の対象にせず市場競争から外す。そのうえで企業の競争があるべきだという。わかりにくい。だいいちそんなことが可能か。
   経済評論家の内橋克人氏は「彼はやさしく、また厳しかった」という。自然災害の被災者から権力、経済、政治で被害を受けた人たちにまでやさしく寄り添った。そのために現場を走り回り、逆に被害を与えた側には厳しかった。
   弔問に集まった教え子たちは社会の第一線の人材ばかりだった。「彼の研究は時代を先取りしていた。社会の病を治す医者。そのための処方箋まで書いていた」(神野直彦・東大名誉教授)。環境省のOBは「(現役時代に)環境の悪化を止められなかった。先生の意志を継ぎ、少しでも貢献して死んでいきたい」と話す。
   内橋氏は「(医者のたとえで)彼は臨床(現場)と基礎(学究)の間を往来して制度を考えた。社会を転換しないといけないから」という。
効率最優先の市場原理主義(新自由主義)を痛烈批判
   宇沢経済学の原点は河上肇の「貧乏物語」だ。イギリス資本主義が生んだ深刻な格差と貧困を描いていた。彼は進路を数学から経済に変える。1956年に渡米し、数理経済理論で36歳でシカゴ大の教授になった。ここで彼は市場原理主義とぶつかる。新自由主義者のミルトン・フリードマン教授と「格差」をめぐって激しい論戦を繰り広げた。だが、格差をいう人はだれもいなかった。アメリカ社会がすでに効率優先だったからだ。
   宇沢は日本へ帰り東大教授になった。その日本も経済成長が必ずしも幸せな暮らしにつながっていなかった。74年、「自動車の社会的費用」を書いて警鐘を鳴らす。豊かさの象徴のはずが、事故や大気汚染で新たな不安を生んでいた。経済開発のひずみはさらに広がり、公害や開発の現場を歩いた。「社会的共通資本」はそうして生まれた。
   いま、その芽は各地で育ちつつある。宇沢理論による町づくりを模索している岡部明子・千葉大教授は、千葉・館山市の築100年の古民家の再生を学生とやった。すると学生と住民の交流が始まり、課題を話し合うようになった。いまでは地域の外からも人が集まる。「経済原理に見放された家が地域を育む共有財産になりうる」と岡部教授はいう。
   津波にやられた宮城・東松島で、移転する小学校の設計をしている風見正三・宮城大教授は6年前まで大手建築会社で大型商業施設開発をやっていた。しかし、開発に伴ってさびれていく地元を見て疑問を感じていた。宇沢理論を知って会社を辞めて研究者になった。
   住む人の利益になる開発とは何か。「できるだけ多くの人を抱き込む。話し合いを重ね、市民が主体で町を作っていくことが宇沢イズムの実現になると思います」という。小学校建設でもそうだ。遊び場作りで大人から子どもまでが汗を流した。
   なるほど、宇沢イズムもこう聞くとわかりやすい。にしても、何とささやかな歩みだろう。まだ制度にもなっていない。「社会の転換」はさらにその先だ。
ヤンヤン



http://biz-journal.jp/2014/10/post_6214.html

2014.10.04
ジャーナリズム ジャーナリズム
経済学者・故宇沢弘文、なぜ偉大?業績を5分で学ぶ 経済成長至上主義と市場経済の弊害
文=田中秀臣/上武大学ビジネス情報学部教授
【この記事のキーワード】宇沢弘文, 経済学, 経済成長

『経済学は人びとを幸福にできるか』(宇沢弘文/東洋経済新報社)

 経済学者で東京大学名誉教授の宇沢弘文氏が、9月18日に亡くなられた。心からお悔み申し上げたい。宇沢氏は日本を代表する経済学者のひとりだったことはいうまでもなく、経済成長論、最適経済成長論への貢献は圧倒的だ。文化勲章は受勲しているものの、ノーベル経済学賞をなぜ受賞できなかったのかが不思議なくらいである。
 ただ宇沢氏の功績、特にその新古典派経済学批判や時事問題に関する発言には、筆者は今までも批判的な視点で見てきた。インターネット上では、宇沢氏の功績を無条件に賞賛する発言も見受けられるが、ここではそのような風潮を横目にしながら、筆者なりに宇沢氏の功績について簡単に振り返り、このいろいろな意味で超えがたい存在にお別れを言いたいと思う(以下、敬称略)。
●反経済学ブーム

 1970年代から80年代前半にかけて、日本には反経済学ブームというものがあった。この時に批判されていた経済学というのは、市場メカニズムを重視する新古典派経済学やミルトン・フリードマンのマネタリズムなどであった。
 もともと日本の経済学は戦前からマルクス経済学と近代経済学に事実上真っ二つに分かれていた経緯があったが、両方ともにmodern(近代)の産物である。しかし新古典派経済学やケインズ経済学だけが、日本では近代経済学といわれてきた。日本の大学ではマルクス経済学の勢力は強く、アカデミズムの場にマルクス経済学者がほとんどいない米国に比べると、かなり異質なものだった。別な視点でみると、それだけ近代経済学を批判する土壌は、日本では深く豊かな面があった。
 反経済学ブームの主役は、例えば佐和隆光『経済学とは何だろうか』(82年)、塩沢由典『近代経済学の反省』(83年)、西部邁『ソシオ・エコノミックス』(75年)などの書籍であった。これらは後に浅田彰や柄谷行人らのニューアカデミズムブームと混じり合い、若い世代に大きな影響を与えた。宇沢はこの反経済学ブームの中でも、とりわけ大きな影響力を持っていた。宇沢の反経済学的な主張は、『自動車の社会的費用』(74年)、『近代経済学の再検討』(77年、以下『再検討』)、『近代経済学の転換』(87年)、『経済学の考え方』(89年)等に集約されている。もっとも宇沢の反経済学的な姿勢は、かなり以前からである。

 簡単にいうと投資によって経済の大きさは実現し、安定的な成長経路をたどるという考え方である新古典派経済成長モデルを、宇沢はその限界まで推し進めて、新古典派経済学の限界をみようとしていた。宇沢の業績を検討した経済学者の高増明によれば、新古典派経済成長モデルではその成長経路が安定的とされてきたが、宇沢の功績では決して「安定的」なものではなく、むしろ不安定なもの、また経済がケインズ的な失業を伴うことにも注目するものだったという。その意味では、宇沢の新古典派経済学への批判的視座は、すでにその学的キャリアの最初から潜在していたといえる。
●経済成長至上主義の弊害

 筆者の個人的な思い出を少々書くと、80年に大学に入学した当時の必修科目での教科書は、ジョーン・ロビンソンとジョン・イートウェルの『現代経済学』だった。宇沢が翻訳したものが当時出版されていた。ロビンソンは宇沢と同じように、「経済学の第二の危機」を唱えて積極的に新古典派経済学やアメリカ流のケインズ経済学への批判を展開していた。ここで「アメリカ流のケインズ経済学」と書いたが、これは新古典派総合ともいわれていた。特徴を簡単にいうと、ケインズ的な景気が悪いと発生する失業には財政・金融政策で対応し、そのようなケインズ的失業がなければ政府は市場に介入しないことが望ましい、という考え方である。
 ただしこの『現代経済学』は宇沢の翻訳もわかりにくく、またロビンソンとイートウェルの主張も理解しがたいものがあった。あやうく経済学嫌いになりそうだったが、小宮隆太郎がロビンソンと、訳者の宇沢に対しても辛辣なコメントを書き、新古典派経済学の立場から丁寧に反論した『ジョーン・ロビンソン「現代経済学」の解剖』(79年)の存在を知って、どうにか混乱しないで乗り切ることができた。
 というわけで、時代の雰囲気の一端はわかっていただけたのではないかと思うが、70~80年代はこのように世間も学的な場も反経済学の色彩が濃厚だった。この反経済学的な伝統は、ニューアカブーム、中曽根内閣の長期化、冷戦構造の終焉、前川レポートなど日米貿易摩擦の深刻化、バブル経済の発生と破裂などを契機として、いくつかのグループに分裂していく。
 この反経済学の流れは、興味深いことに政治的イデオロギーとしては右左両派に受け継がれていく。典型的には、左派(日本的リベラル)では伊東光晴や内橋克人らのような流れ、右派では西部邁やその影響を受けている中野剛志らの流れである。私見では、右も左もこの反経済学から流れ出た人たちは、(1)金融政策への否定的ないし消極的見解、(2)反米、(3)貿易自由化への批判的視座、(4)市場メカニズムへの懐疑(市場原理主義批判)、などの諸点を共有しているように思われる。


 宇沢もまた、いま列挙した特徴を多かれ少なかれ共有している。特に宇沢の反経済学の立場を特徴づけるのが、経済成長至上主義(=効率化第一)の弊害の指摘だった。「高度成長の欠陥をひと言にしていえば、経済活動と環境との相克を狭義の経済的規範によって処理し、環境のはたす文化的、社会的な機能」について無配慮である、というのが宇沢思想の核心である。
●経済学者たちへの失望と反感

 経済成長=効率第一主義の一例は、60~70年代であれば公害や自動車事故の激増などに代表されていた。またこの経済成長第一を支えるイデオロギーは、効率第一を唱えている新古典派経済学であった。公害や自動車事故の激増だけではなく、この効率性至上主義の弊害は、米国のベトナム戦争への姿勢に典型的に表れていた。
 宇沢の反経済学的著作の代表作である『再検討』のハイライトは、「ヴェトナム戦争と近代経済学」の節にある。そこで宇沢は、反米+新古典派批判+効率第一主義批判を重ね合わせて議論を展開している。例えば米国の経済学者が、費用便益分析でベトナム戦の殺戮率を計算したことへの批判は、刺激的なうまくできた例示だった。宇沢の米国政府、そして協力していた経済学者たちへの失望と反感は、『再検討』の次の一文からもわかる。
「ベトナム戦争の経験は、一方では経済学者たちが持っていた社会的、歴史的な思想・論理体系が現実と大きく乖離し、妥当しないということを示した」
 このような「現実」そのものが、新古典派経済学に適合していないので、新古典派を全面否定するというロジックは日本ではかなりのブームを引き起こす。例えば「現実」の市場は不均衡なので、均衡している市場を前提してそこから経済のいい悪いを判断する新古典派経済学は「現実」的ではない、とみなした。宇沢は不均衡動学という枠組みに、80年代終わりごろは特に大きな期待を抱いていた。ただし現時点でも不均衡動学は未完成であるか、または政策を議論するときに実り多い収穫を生み出していない。
 宇沢は市民的権利を蹂躙するイデオロギー、あるいは金儲け主義の権化としても新古典派経済学を批判していく。このような倫理面での批判は、主にミルトン・フリードマンという個人に対して強く向けられていた。金儲けへの過度な傾倒、黒人差別、チリの独裁政権などへの支持を、宇沢はフリードマン批判、さらには市場主義への批判としても展開していった。これらのフリードマン批判の妥当性については、今日でも議論が続いている。

●社会的共通資本

 宇沢はもちろん、新古典派経済学を批判だけしていたのではない。社会的共通資本という新しい考えを提起した。それは市民的権利をいかに支えていくかを彼なりに考えた成果だろう。大気、河川、土壌などの自然資本、道路、橋、港湾などの社会資本、医療、教育、金融システムなどの制度資本を、政府が安定的に提供することで、市民が最低限度の生活を送りやすくするという構想だ。そしてこのような社会的共通資本は、官僚のコントロールではなく、専門家集団を中心とする市民的な取り組みで指導していくという。
 この専門家集団への委託も、宇沢にあってはただの絵空事ではなかったろう。例えば60~70年代に社会問題となった成田国際空港建設をめぐる一連の動きには、この宇沢の考えがかなり反映されていたのではないだろうか。これは宇沢の今後さらに再評価されるべき論点になるだろう。
 宇沢の反経済学的な発言とその実践的な成果は、これからも何度も再考していく必要がある。それは筆者には反面教師なのだが、他方で最も知的刺激の多い反面教師でもある。改めてご冥福をお祈りする。
(文=田中秀臣/上武大学ビジネス情報学部教授)

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