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たじままさお-田島正雄さん


たじままさお-田島正雄さん




http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20141028/CK2014102802000042.html

2014年10月28日

黒焦げ遺体 光景無残 田島正雄さん(86)=富山市

つらい思いを打ち明け、平和への願いを語る田島正雄さん=富山市水橋新町で
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 原爆投下から来年で七十年になる。戦後の長い日々を被爆に苦しむ人々は富山にもいる。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市)は今月、県内被爆者の証言をビデオに収録した。戦禍の記憶を風化させたくないと、被爆者たちはつらい過去を掘り起こした。その証言を届けたい。

 「ぱーっと太陽より明るく光ってドーンと音がした」。田島正雄さん(86)=富山市水橋新町=が、広島でその光を見たのは十七歳のときだった。

 一九四五年一月、富山市の水橋商業学校(現滑川高校)から陸軍水上特攻隊員に志願した。軍国ムード一色の時代。「若かったから深く考えもしなかった」

 近所からは寄せ書きした日章旗をもらい、駅まで日の丸を持った人々に見送られた。寂しさを押し隠す両親の姿を思い出す。「長男が戦争にとられるのはつらかっただろう」

 香川県の小豆島で六月まで基礎訓練をした後、特攻訓練ができる広島県の江田島に移った。二百五十キロの爆弾を付けた特攻艇で、相手艦船への体当たり訓練をしていると、毎日のように米戦闘機から弾丸を落とされた。「命は諦めていた」

 出撃を待っていた時、あの日を迎えた。

 爆心地から十二キロ。瀬戸内海に面した木造兵舎から午前八時半に始まる訓練のため外へ出た。その瞬間、突然の熱い爆風に襲われ窓は一瞬で吹き飛んだ。何があったんだ? 市内の方に目を向けると「ゆっくりきのこ雲が形成され始めていた」。

 午前十一時ごろ、支援命令が出た。昼すぎに爆心地付近に入ると、性別不明の黒焦げの遺体ばかりでひどいにおいが立ちこめていた。川にも体が倍ほどに膨らみ、顔が青色の遺体がびっしりと浮かんでいた。「兵隊さん。水くれー、水くれー」。死者の間から助けを求める声。今もその光景は脳裏から離れない。「きのこ雲は、夕方まで消えなかった」

 翌日、爆心地に踏み入ると、電車が立ち往生していた。中の乗客は全て黒焦げ。火災も起きていた。無事な建物はなく無残な遺体に囲まれて野営。同僚の一人は夜、死者から「助けてくれー」と足を引っ張られたという。悪夢とも現実ともつかない経験に「生きた心地がしなかった」。

 戦後は富山に戻り電力会社で働いたが、被爆を隠した。脱毛と歯茎の出血に発熱。「被爆者じゃ結婚もできない」。五年前にはがんを発症。被爆のせいではないかとの不安は拭えない。現在、県被爆者協議会会長代理を務める田島さんは、核兵器の廃絶を強く訴える。「戦争みたいなあんな不幸で、ばかなことを日本は二度と繰り返してはならない」 (伊勢村優樹)


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